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Brief30 「恥じらい」…?:再び、ジェンダーは「記号」である


 長らくお読みいただいたこのエッセイも、さすがにもう書くことが尽きてきたので、とりあえず今回で締めくくりとします。

 で、最終回は、これまで意識的に書いてこなかった女としての心のあり方=「気持ち」の問題を書いてみたいと思っています。
 ‥‥といっても、たぶん、みなさんが想像しているような内容とはちょっとちがうものになると思います。

 前橋梨乃名で「女装小説」を書き始めた時もそうだったのですが、柴野まりえとして実践に踏み込んだ時も、そして、このエッセイを書こうと思った時も、私がそれを決意する大きな要因になったのは、じつは、「女装趣味の世界へのいらだち」ということだったりします。
 もっと正直に言ってしまえば、現実に展開する「女装趣味の世界」に、私は、つねにどこか違和感‥‥というか「気持ち悪さ」のようなものを感じています。
 いえ、誤解しないでください。女装という行為そのものが気持ち悪いと言っているのではありません。
 私のセクシャリティの中核には、まちがいなく「女装したい」という心情があり、だからこそ、あんな小説も書き、また、実際に女装もしたのです。そんなことを思ったとしたら、私自身を全否定することになります。
 ただ、現にある「女装趣味の世界」には、確実に私の肌に合わないものがあるのです。
 言ってみれば、そんな気持ち悪さへの反発が、「自分自身でやってみる」ことにつながったと言ってもいいと思います。

 たとえば、私が女装小説を書き始める以前にも、「くいーん」誌などには女装を題材とした小説が載っていました。
 しかし、そこで展開されている世界は、私にとっては、どうしようもなく気持ち悪いものでした。
 女物の服を着て化粧したとたんに、普通の男だった主人公が、なんの根拠も必然性もなく、いきなり「なよっ」とし、言葉づかいまで変わってしまいます。まるで、明治時代のお嬢様か風俗のお姉さんのようなしゃべり方をするのです。その姿は、いわば人格を放棄してしまったといわんばかりです。

 セクシャルな描写でもそうです。主人公は、女の格好をさせられたとたん、いきなり「受け身」一方になり、相手の男にされるまま「性の玩具」としての「女の悦び」を感じてしまったりします。
 それが、多少なりとも格調ある正統派サド・マゾの世界ならまだしも、どう読んでも、精液の臭いだけが立ちこめる薄汚い風景だったりするわけです。

 さらにもっと気持ち悪いのは、そんな人格放棄の物語であるにもかかわらず、まるで純文学気取りの陰気な「美学」がつけ加わります。「かくして彼の中には、すべての運命を受け入れようとする真の女心が芽生えたのであった」とか称するわけです。結局は自分勝手で自閉的な「女装の言い訳」にしか見えません。
 私が自分で「女装小説」を書いてみようと思ったのは、なんとか「そういうものではない女装のお話」を作りたいと思ったからです。

 そして、そんな「女装趣味の世界」に対する違和感は、インターネットの普及を契機としてこの世界がかなりにオープンになってきた現在においても、なおつづきます。

 私は、インターネットで女装系サイトを開くのは、かなり恥ずかしいことだと思っています。これもけっして、女装写真を掲載するとかいうことが恥ずかしいという意味ではありません(そんなことを言ったら、やはり、私のやっていることを否定することになります)。
 私がなにより恥ずかしいと思うのは――
 そこで表現されている女性像を通して、その人本人が持っている「女性観」がモロにわかってしまう
 ――ということです。

 たとえば、女装系サイトの掲示板には、こんな調子の書き込みがよくあります。
「そんなことおっしゃったら、恥ずかしいですわ。あたし、そんなはしたない女じゃありませんことよ。もっとおしとやかですわよ。」
 ‥‥あ〜、気持ち悪ッ。
 今どき、どこの世界に、「ことよ」「ですわよ」なんてしゃべる女性がいるというのでしょう?
 まあ、たしかに、「そういうのは、ある程度の年齢以上の男だろう」という意見もあるでしょう。でも、若い人にも、結局は同じような傾向の人はいます。
 「ウエーン、あたし、わかんな〜い」とやたら「バカな女」をやりたがる人とか、「そんなこと言われたら、泣けてきちゃう‥‥クスン」なんて「ひ弱な女の子」をやりたがる人とか‥‥。
 あなたのまわりに、ほんとにそんな女性がいますか?

 それをある種のパロディとしてやっているというならわかりますし、あるいは百歩譲った上で「いないからこそ、自分の理想の女性像として演じているのだ」ということなら理解はできます。
 ですが、今どき、女の理想像が、「バカ」でキャピキャピしていても、そのじつ「受け身」で恥じらいがあって、精神的には「ひ弱」な女性だと主張するなら、そんなことを言うやつは、そうとう恥ずかしいし、気持ち悪い男だと思います。そんなのはマチズム(マッチョ主義)の裏返しでしかないでしょう。少なくとも私は、友だちになりたくありません。
 ところがまた、どういうわけか、そういう人にかぎって、プロフィールや日記のページを見ると、やたらに「女らしさ」を強調していたり、「女の子だから」という言葉を(マジで)連発していたりするものです。
「女の子の気持ちをいっしょうけんめい持ちつづけて、もっともっと女らしくなるためにがんばらなくっちゃ」とか‥‥。

 私は、それを、ものすごく気持ち悪いことだと感じます。
 だから私は、「そういうものではない女装」をして、「そういうものではない女装サイト」を作りたいと思ったのです。

 ここで、話はちょっと飛びますが、私は、日本的な精神論というのが大っ嫌いです。
 苦しさに耐えて努力さえすれば必ず報われる。なにより、努力しようとする根性や精神こそが尊い‥‥という考え方です。
 単なるスポーツの練習だとか、あるいは「月間売上目標達成」だとかいうことにさえ、やたらそういう発想を持ち込みたがる人がいるものです。

 もちろん、ものごとに対する「努力」や、そこに向かわせる「スピリット」を馬鹿にする気は毛頭ありませんが、それだけを強調していると、結局は、合理的な考え方を見逃し、戦略・戦術を見誤り、そのための技術を軽視することになりかねません。どうも日本人というのは、いつの時代もそういうところに行きがちです。
 しかし、どんな場面においても、「がんばろう」という気合いだけでなにかが生まれてくるわけではありません。そんなのは結局、当人(たち)の自意識を満足させているに過ぎないのです。
 私は、「心」や「気持ち」を強調すればそれでよしとする風潮がきらいです。
 なにより、そこで強調される「心」や「気持ち」の中身といったら、「がんばる」というような陳腐なステロタイプのスピリットしかないのですから。

 私が、前述したような「女装趣味の世界」の風潮を気持ち悪いと感じるのは、そんな心性とつながっている気がします。
 しょせん、個人の趣味嗜好でしかない女装という行為に、やたら「女の心」だの「女の子の気持ち」だのを強調する。そのくせ、そこでめざす「女らしさ」と言ったら、男が男の立場で勝手に夢想している、カビが生えたようなステロタイプでしかない‥‥。それが気持ち悪いのです。

 それならいっそのこと、「心」や「気持ち」は無視して、徹底的に「戦術としての女装」「技術としての女装」「形から入る女装」を語ってやろうじゃないの。「女の心」や「女の子の気持ち」なんか云々しなくたって、女に見せることくらいできるってことを、証明してやろうじゃないの。

 私がこのエッセイを書こうと思ったのは、そんな動機だったりします。
 そうすることで、「女装趣味の世界」から、気持ち悪い精神主義の毒気を抜きたいと思ったのです。

 ですから私は、このエッセイを、まるで、熱心な釣りマニアが「格好の釣り場ポイントはどこか?」とか「最新式電動リールの有効な使い方は?」とかを語る‥‥といった調子で書いてみました。
 趣味嗜好ということで言えば、「釣り」も「女装」も、全く等価だと思いますから。
 ちなみに、きっと釣りマニアの世界にも、やたら「釣りの精神」を語りたがる人はいるのでしょう。でも、どんな高邁な理想を垂れようが、しょせん、「たかが釣り」「たかが女装」です。そして、そんな精神論を語りたがる人にかぎって、「高邁な理想」の中身など、たかがしれているものです。
 だからこそ、ここで強調したかったのは、手垢のついた「女らしさ」などではなく、戦術的な「女の記号」なのです。
 要するに私は、このエッセイで、「らしさ」を「記号」として解体してしまおうと企てたわけです。

 では、私は「女らしさ」ということをどんなふうにとらえているのか? そして、いったい、何をめざして女装するのか? このエッセイの最後に、それに触れておきましょう。

 じつは私は、「男らしさ」「女らしさ」というようなジェンダーの観念など、しょせんは、なんの根拠も実体もない幻想だと思っています。

 しかし未だに、ジェンダーに固執し、旧来から言われる「男らしさ」「女らしさ」を必死に守ろうとする「ジェンダー絶対主義者」たちが、あとを絶ちません。つねに、いかにも目新しそうな装いで人々の目をくらませながら、立ち現れてきます。

 たとえば最近の論調で言えば、「男の脳・女の脳」というコンセプトなどまさにそれです。「話を聞かない男、地図が読めない女」というやつです。
 男と女の現実の行動様式(の統計)としては、まさにそういうことが言えるのでしょうし、また、脳梁をはじめとして、男の脳と女の脳に計量的な構造のちがいがあるのもたしかでしょう。
 しかし結局のところ、その「理論」というのは、それぞれの現象を都合よく結びつけた因果関係の解釈にすぎず、最終的に心理の問題であるかぎりは、疑う余地のない実証などできるわけもないのです。
 また、もし仮に、そんな脳の構造と男女の行動様式が本当に結びついていたとしても、それは「卵とニワトリ」の関係のようなもので、「脳の構造がそうなっているからそんな行動様式をとる」のか、「男と女が個人史的にも歴史的にもそんな行動様式を要求されてきた結果として脳の構造がそうなった」のかは、これまた実証不可能です。もし後者だとするなら、これから、いくらだって変わる可能性はあるわけです。

 いずれにしても私は、男と女を、そんなわかりやすい固定的な図式でとらようとする勢力に与しません。
 そんなのは、人間の可能性を狭めることにしかならないと思うからです。

 では私は、「男らしさ」「女らしさ」、つまりジェンダーという概念を全く否定するのかというと、じつはそういうことでもありません。
 もし、ジェンダーという概念が消失して、「男らしさ」「女らしさ」の観念がまったくなくなったとしたら、そんな世界は味気ないし、それにだいいち、個人個人が平均的で均質な世界など、想像しただけで薄気味悪くなります。

 ひとりひとりの人間が、個性的かつ面白くて起伏ある人生を送り、また、人を恋し、愛するために、ジェンダーというのは、香辛料のように――あるいは、もっと言ってしまえば「必要悪」として――、欠かすことのできない概念だと思います。
 ただ、できれば、その概念のあり方が、押しつけがましくて全体主義的な「らしさ」などではなく、個別、かつ、いつでも取捨選択可能な「記号群」として存在していてほしいとは思っています。

 そんなふうに考えているからこそ私は、「男はかくあらねばならない」「女のくせに‥‥」とかいう言質を垂れたがる「ジェンダー絶対主義者」がきらいです。
 そして、まったく同じ理由で、「ことよ」「ですわよ」言葉をマジで使えるような「ジェンダー絶対主義女装者」がきらいなのです。

 そんな人たちを見ると、私はいつも、思いきりからかってやりたいという思いにかられます。
 また、ジェンダーそのものに対しても、それを認めた上で、なし崩してやりたい、思いきりもて遊んでやりたいという気持ちを抱くのです。
 前橋梨乃の小説も、「1日だけのまりえ」サイトの写真も、そして、このエッセイも、一面では、そんな私の(皮肉なことに、とても「男らしい」)反骨の心から出た自己表現です。

 このエッセイの感想メールをくださったある読者の方が、私の行為を「女装実験」と書いていらっしゃいました。まさに、言い得て妙だと思います。

 私がずっとめざしているのは、けっして固定的な「女らしさ」などではなく、「男らしさ」「女らしさ」の間を自由に越境(トランス)する可能性です。
 私は、いわばいつも、その実験をしているようなものです。

 これからも私は、そんな、ジェンダーをより自由で使い勝手のよいものにしていく「物語」や「技術」を、書いていきたいと思っています。


 みなさんも、このエッセイを参考に、そんな「自由な自己表現としての女装」を楽しんでいただけたなら幸いです。

 ‥‥えっ? で、結局、「受け身」や「恥じらい」は女の記号かですって?
 いいえッ! そんなの、断じてうそっぱちよ!


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